保護者・教諭のみなさまへ

「みやサンぷろぢぇくと」企画趣旨

2000年6月に始まった三宅島噴火災害は、噴石の被害だけにとどまらず、火山ガスの大量発生という問題も浮上し、近年まれに見る自然現象が起こっている。関連していると思われる神津島・新島沖の地震活動は沈静化に向かっている。

緊急火山情報が出されたのは6月27日。それから2ヶ月の間、三宅島島民は避難勧告が繰り返し発令する中で、自宅と避難所との間を往復するだけの生活が続いた。この間、多くの人は生活を支える労働の時間を割き、火山灰撤去等に時間を費やした。

一方、観光の島と言われる三宅島は、この夏、人の訪れを待つことなく、8月29日を迎えた。
この日、雄山は再び黒煙を上げ、有毒な火山ガスが島民を襲った。子どもたちだけは、いち早く島を後にし、東京都秋川高校に集団疎開することとなった。
9月4日、島の維持関係者以外のすべての島民は島を後にした。

終わりが見えない避難生活は、東京の中に島民が分散する形で始まった。特に子供たちの多くは秋川での集団生活を続け、島の仲間は広い東京に離れ離れとなっていった。
では、集団疎開から2ヶ月になろうという今、現地の人に<外から>いったい何ができるのだろうか。物資支援よりも重要な精神面の支援が不足しているのではなかろうか。お年寄りの心のケアなど専門的な知識を持った人でなければ、避難先に入ったとしてもニーズに合致した仕事ができるかどうかわからない。

一方で、三宅島災害に続いて、東海大水害、鳥取県西部地震など大きな災害があり、何かもう三宅島の災害は終了したかのような錯覚にとらわれる。東京にいる被災者の人たちさえ、忘れられていくような気分におちっているのではないか。その温度差をうめ、しかも現地の人に迷惑のかからない手だてはないだろうか。

その一つに、現地にいなくてもできる「情報の支援」がある。また、 情報ツールを使って、現地の人たちに多くの人たちが気遣っていることが伝わることで、現地の人たちの気持ちを和らげることにつなげることも可能だ。インターネットを通して、Xmasカードを募集するという試みは、

  1. 物流をともなわないで,<心のつながり>を実感する。
  2. 楽しい話題を提供する。
  3. お金や機材がさほどかからず、ボランティアの仕事を全国に分散させることが可能である。
  4. 非常に多くの人が募集したとしても負荷はそれほど大きくない。

という点で、私たちに可能で、しかも被災者の迷惑にならないであろう。

私たちは、日常的な自由が少ない中で、子どもたちに楽しい話題を提供し、元気な子どもたちと一緒に大人も元気になることを願っている。

一方、有珠山噴火は下火になったとはいえまだ続いており、虻田町温泉小学校などの子供たちは不自由な生活を強いられている。が、子供たちは忘れていない。同じ噴火災害を体験した、島原のある小学生からのメッセージを。

「7月のねがいにふんかをしないようにねとかいてね」

三宅島の子供たちへも、自分たちから何か支援ができないかと考えるようになった。島原から有珠山へ、そして、有珠山から三宅島へ。子供たちの熱い支援の輪を私たち、大人が実現させてあげようではないか。

懸命に観測を続け、将来を予測しようと寝食を忘れて没頭する火山学者と、日々奔走する行政担当者を前に、被災者は自分の気持ちを率直に表現することをためらうのではないか。しかし、生活の基盤である家を離れ、なれない大都会の中に分散し、およそ<先の見通し>を持つことを許されない暮らしの中で、被災した大人たちも同じ思いを抱いたまま、動揺や怒りや落胆を繰り返している。

ところがその三宅島の子供たちのなかにこう掲示板に書いた子供がいる。

「だんだん季節も肌寒くなってきました。秋川にきて2か月生活にもすこしづつなれ、やっと落ち着いてきました。ここにきて色々な人におせわになってとても感謝しちます。いまは、何もできませんがいずれなにかおかえしをしたいです。」

という気持ちが広がっている確かな感触がある。避難生活の中で明日への希望を捨てない子供たちの存在が確かにあるのだ。有珠山の子供たちから三宅島の子供たちへ。

同じような災害を体験した子供たち共通の思いを伝える義務が、私たちにある、そんな気がしてならない。
みやサンプロジェクトはこの理念を掲げ、被災者に負担にならない形で実現しようではないか。

(平成12年10月13日 有珠山ネット)